さんみゅ〜大好き!世界史のお勉強

高校教科書・参考書・問題集からの引用を中心に
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新規05162
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    オスマントルコ帝国〔1299-1922〕
     オスマントルコ族が小アジアを中心に建てたイスラム国家。始祖はオスマン=ベイ。14世紀中ごろからバルカンに進出したが、ティムールに敗れ〔1402〕、その進撃は一時さえぎられた。しかし、1453年にコンスタンティノープルをおとしいれて東ローマ帝国を滅ぼし、次いでセリム1世はイラン、シリア、アラビア、エジプトに遠征して、最後のアッバース朝のカリフからカリフの尊号を与えられてイスラム教の宗主権を握った〔1517, スルタン-カリフ制度〕。スレイマン1世〔在位1520-66〕の治下はその最盛期で、領土はアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがって、その軍隊はウィーンに迫るに至り〔1529〕、国内的にもめざましい発展をとげたが、17世紀の後半以後衰えて、オーストリア、ロシア、ポーランドなどの進出が激しくなり、同世紀末にはハンガリーの大部分をオーストリアに、18世紀後半には黒海北岸をロシアに奪われた。このために19世紀の前半に革新運動が起こり、種々の面でヨーロッパにならった近代化が進められた〔タンジマート改革時代〕。しかし領土内には多くの民族国家が独立し、さらに青年トルコ党の政権下で第1次世界大戦にドイツ側に立って参戦して敗れ、過酷なセーブル条約〔1920〕に調印せざるをえなかった。ケマル=アタテュルク一派はこれを承諾せず、アンカラに国民議会を召集し、スルタン制を廃止して帝国を廃止して帝国を滅ぼし〔1922, 12, 2〕、翌年トルコ共和国を建てた。

    吐蕃
     7世紀の初めから9世紀の中ごろにかけてチベットに成立した古代王国。ソン=ツェン=ガム=ポのときチベット諸侯を統一して、ラサに都した。支配階級は遊牧生活を中心としたが、被支配民の中には、多くの農耕民がいた。周囲の諸民族を征服して、唐から皇室の娘をめとり、インドと交通してその文化をとりいれ、仏教を信奉した。安史の乱に乗じて、唐と戦って東トルキスタンを取り、中国内地にも進出したが、のちに和約を結んで、唐蕃会盟碑を立てた。200年にわたって繁栄したが、11代のラン=ダルマのとき、仏教を弾圧してから衰え、各地に諸侯が割拠するようになった。

     

    〔581-618〕

    中国の王朝。北朝の北周の権臣楊堅〔文帝〕が周に代わって建国し、589年に南朝の陳を滅ぼして全中国を統一した。漢以後南北朝に至る諸制度を整理して律令制の基本をつくり、それが唐で完成される土台を固めた。州県制、均田制、租庸調、府兵制などによって豪族の勢力を押さえ、科挙を始めた。第2代の煬帝は大運河を開いて南北の大動脈を貫通した。しかし急激なその集権政策、大土木事業、突厥、林邑〔チャンパ〕、琉求〔台湾〕への遠征などで人民の疲弊が加わり、高句麗に対する大遠征が失敗すると各地に反乱が起こり、煬帝が近衛軍に殺されて滅亡した。

     

    〔618-907〕

    隋のあとを受けて中国を統一した王朝。隋末の乱に晋陽〔山西省太原〕を根拠地として唐公李淵が地方豪族や不平官僚を結集して高祖となり、長安に都した。科挙によって官僚に人材を集め、六朝以来の門閥は勢力を失った。三省、六部を整え、漢、魏以来の律令制を集大成して、均田法、租庸調などを行い、その制度文物は全東アジアに影響を与えた。太宗、高宗時代には突厥、高句麗などを破って領土を広げ、羈縻〔きび〕政策で異民族を押さえ、西域、ペルシア方面、南海、インドとも交通し、国際色豊かな文化を築いた。開元の治をうたわれた玄宗時代を最盛期として、安史の乱後は周囲の異民族の勃興と節度使の跋扈に苦しみ、黄巣の乱から立ち直れず、後梁〔ごりょう〕の朱全忠に滅ぼされた。

     

    シュリービジャヤ

    スマトラ島東部のパレンバンを都とし、7−11世紀に栄えた王国。一時はジャワ、マライ半島をもその領土とし、海上交通の要路をを押え、海上貿易国として繁栄したが、11世紀以後衰えた。インドの諸王国とも関係が深く、インド文化の影響を強く受けた。唐、宋とも通好し、唐代には室利仏逝(しつりぶつせい)、宋代には三仏斉(さんぶつせい)として知られた。またこの国の仏教に関しては、唐の僧侶義浄の旅行記南海寄帰内法伝に書かれている。

     

    マジャパヒト王国(1293−1521)

    ジャワのヒンズー王国。クルタラージャサが、元の大軍のジャワ侵入を敗退させ、ジャワ島東部のマジャパヒトに都を置き王朝を始めた。14世紀後半、名宰相のガジャ=マダに補佐されたハヤムウルク王の時代が最盛期で、マライ半島南部を含むインドネシアのほぼ全域を支配化に置いた。王の死後衰え、1521年ごろ滅亡し、ジャワのイスラム化が始まった。

     

    アステカ文明

    14世紀から16世紀初めにメキシコで栄えた文明。アステカ族は、アメリカ-インディアン系の種族で、マヤ文明を受け継いで独自の文明をもった王国を建て、神政政治を行った。人身御供を中心とする熱狂的な信仰を特徴とし、怪異な彫刻を残している。壮大な神殿を建て、文字を知り、天体観測による暦法にみるべきものがあったが、金属製道具は発達しなかった。1520年にスペイン人のコルテスによって王国は滅ぼされた。

     

    マヤ文明

    中央アメリカのメキシコ南部からグアテマラにかけて栄えた文明。3世紀ごろに始まり、6世紀ごろから最盛期にはいり、13世紀に破壊された。特に6世紀ごろから都市国家を形成し、天文、暦数が発達し、石造建築物その他の遺跡を残している。16世紀にスペイン人がこの地を征服するまではほとんど滅びていたが、この文明の流れはアステカ文明に受け継がれた。

     

    アンデス文明

    南アメリカのアンデス山脈地帯に発達した文明。紀元前7000年、石器、狩猟文化にさかのぼりうるが、その後原始農耕時代をへてトウモロコシ栽培と土器製造文化に移行し、さらに地域的文化を示しつつ各地で土器、織物、巨石建造物文化を発展させた。11世紀にインカ帝国をはじめ諸王国がおこり、青銅器、階段式耕作、石造建築、道路、縄文字などのいわゆるインカ文明をのこしたが、1533年スペインに征服され、絶滅した。

     

    プラトン(前427頃〜前347)

    古代ギリシアの哲学者。アテネの貴族の出身でソクラテスの弟子。師の死後は諸国を遊歴したのち、アテネに帰って学園アカデメイアを立て、経験的事物を超えて存在する超越的な真実在としてのイデアを説いて観念論哲学の体系を打ち立てた。社会、国家思想では、ポリスにおいて正義は実現されると考え、国家論で婦人、財産の共有者である統治者と戦士、直接生産者の身分を区分し、哲学者によって統治される理想国を説き、さらにのちに法律論では市民は家族と一定の土地、奴隷をもつべしとした。

     

    アリストテレス(前384〜前322)

    古代ギリシアの哲学者。マケドニア王の侍医の子。アテネのアカデメイアでプラトンに20年師事し、マケドニアの王子アレクサンダーの師となった。のちアテネに学園リュケイオンを立てた。多方面の学問に通じた古代最大の体系的博物者。哲学説は、超越的世界の中にイデアをとらえるプラトンを批判して実体を説き、それを個別に内在すると考え、質量(可能的存在)より形相(現実的存在)へ、最後は純粋の形相すなわち神に至る目的論的発展を説いた。政治、国家学説は現実的で、現実の国家、すなわち多数のポリスの制度史研究を行った。

     

    ピュー

    8世紀ごろ、ビルマのプロームを中心として栄えたピュー族の王国。南詔と境を接していたので中国の唐に名を知られた。人種はティベット=ビルマ族ともモン=クメールぞくとのいわれ一定しない。11世紀初めパガン朝に圧迫されて滅亡。

     

    高祖(漢)(前247〜前195)
     前漢の始祖、初代の皇帝(在位前206〜195)。姓は劉、名は邦。江蘇省沛の人。農民の子に生まれ、前209年に陳勝、呉広の乱に乗じて兵をあげ、前206年に秦の都の咸陽を占領したが、項羽に追われ、5年間戦ったのちに項羽を垓下の戦いで破り、前202年に長安に都して漢を建てた。秦の諸制度を継いで民心の安定をはかり、郡国制度を実施して一族、功臣を封じ、対外的には消極政策をとった。国家が安定するにしたがって功臣を排除して、劉氏一族で政治を独占したが、死後皇后の呂氏の乱が起こった。

     

    ワシントン会議(1921−22)

    第1次世界大戦後の主要国際会議のひとつ。アメリカの招請で、日本、中国、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガルが参加。1921年11月ー1922年2月にワシントンで開催された。その結果、海軍軍縮条約、中国に関する九か国条約、日英同盟の廃止などを規定した四か国条約などが結ばれたほか、山東問題に関する日中協定の斡旋が行われた。これにより再編成された極東における列強の勢力関係がいわゆるワシントン体制で、約10年間維持された。

     

    九か国条約(1922)

    1922年2月のワシントン会議で、日本、イギリス、アメリカ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、オランダ、中国の9か国の間に結ばれた条約。正式には、中国に関する九か国条約という。アメリカ全権ルートの示した対中国四原則にもとづき、中国の主権、独立、領土の尊重、中国における機会均等主義を樹立し、1国が利益を独占しないことなどが決められた。この条約と同時に、日本は山東の権益の放棄をはじめとして、中国での既得権益に関して譲歩、後退を余儀なくされた。

     

    ルール問題

    ドイツ北西部のルール地方の支配をめぐる問題。ルールはラインラント北部にあるヨーロッパ最大の石炭と鉄の生産地で、かつ工業地帯である。第1次世界大戦後、フランスはこの地の支配を企て、1923年賠償支払いの停滞を理由に全域を占領した。ドイツは受け身の抵抗を行ったのち、シュトレーゼマンンの指導により妥協に向かった。第2次世界大戦後、この地方の産業は連合国の統制下に置かれたが、E.C.S.C.(52)の発足とともに、国際管理と生産の制限がなくなった。

     

    四か国条約

    1921年12月にワシントンで締結された日本、イギリス、アメリカ、フランス4か国間の条約。アメリカの主導のもとに太平洋上の諸領土に関する現状維持の尊重、紛争の共同調整などを規定したもので、期限は10年とされた。このうちの第4条により、1911年に更新された日英同盟が破棄された。

     

    ヤング案

    第1次世界大戦後のドイツの賠償問題解決案のひとつ。1929年にアメリカ財界のヤングを長とする国際専門家会議でドーズ案を修正して立案され、翌年ハーグ会議で採択された。支払期限は1988年、賠償総額は利子ともで1160億マルク。国際決済銀行の設立、連合国のラインラント撤退などを伴った。世界経済恐慌の深刻化とともに実施は困難となり、1931年の金融恐慌のため、32年ローザンヌ会議において正式に廃止された。

     

    宋教仁(1882−1913)

    清末民国初めの革命家。湖南省の生まれ。黄興(こうこう)らと華興会を組織したが、挙兵に失敗して日本に亡命、留学した。1905年に中国革命同盟会の結成に参加して、機関紙民報の編集にあたり、11年の辛亥革命には揚子江一帯で活躍。12年(民国元年)に南京臨時政府法制院総裁となったが、袁世凱の借款政策に反対して下野し、革命派を合して国民党を創設し袁の反革命を押さえようとしたが、暗殺された。これが契機となって第2革命が起こった。

     

    ヴァイマール憲法(1919)

    1919年8月に発布されたドイツ共和国憲法。ヴァイマールに移っていたドイツ議会で制定されたためにこのように呼ばれる。世界で最も民主的な憲法といわれた。主権は国民にあり、大統領は国民の直接選挙で選ばれて強大な権力をもつ(非常の際には憲法48条によって独裁権をもふるう)。議会は大選挙区、比例代表制により、成年男女の普通選挙で選ばれ、政府は議会の信任を要する。ほかに人民投票の制度があって、人民が立法と行政に直接干渉できる。連邦制をとり、各州は独自の憲法と議会と政府をもち、各州政府代表が集まって参議院をつくる。また国民の基本的権利も規定されており、特に労働者は経営評議会をつくって企業経営と経済立法に参加した。しかし反民主派に無制限な活動の自由を許したこと、議会が正当に分裂していたこと、軍部が憲法に違反して独立の地位を保ったことなどの欠点をもっていた。

     

    ウェストミンスター憲章

    1926年のバルフォア宣言の内容を立法化したもの。1931年に成立。イギリス本国と自治領は帝国内の地位平等な自治的社会を構成し、王冠に対する共通の忠誠によって結合され、王冠はイギリス連邦構成員の自由な連合の象徴であり、イギリス本国の議会で制定された法律は、自治領の要求と同意によってのみ自治領に適用されることなどを規定している。しかし第2次大戦後イギリス連邦内の結束は年々弱まり、インドは王冠への忠誠を誓わず、南アフリカ共和国は追放され、パキスタンは脱退を宣言した。貿易面でも連邦特恵制度の重要性が薄れた結果、連邦内の連携は弱まり、イギリスのEC加盟はこれに拍車をかけている。

     

    国民会議派

    インドの政党。1885年に創設。初期は知識階級から成るイギリスとの協調機関であったが、イギリスの帝国主義的植民地政策が露骨となり、インド人の民族意識が高まるとともに反イギリス的色彩を強め、自治獲得を目ざすに至った。第1次世界大戦後には、ガンジーの指導のもとに大衆を動員した非暴力不服従運動を展開した。第2次世界大戦後、独立したインド最大の政党として政権を担当。1969年大統領選のさい左右両派が分裂、左派は右派共産党との提携を強めた。77年の選挙に敗れ、野党となったが、78年ガンジー夫人が国民会議派インディラ派を形成、優勢となった。

     

    ヴェトミン

    ベトナム独立同盟の略称。1941年中国の広西省の一小村で成立したベトナムの反帝国主義民族統一戦線。ホーチミンの指導下に共産党をはじめとする各種民族主義団体が参加した。太平洋戦争中は日本の進出にゲリラ戦によって対抗し、戦後は植民地復活を目ざすフランスと全面的に交戦して、ベトナム民主共和国の母体となった。1951年に他の民族戦線と統合して発展的に解消した。

     

    世界恐慌(1929)

    1929年10月末のニューヨーク株式市場(ウォール街)の大暴落に端を発し、全産業部門をおおい、全資本主義国家に波及した未曾有の大恐慌。29〜33年に欧米諸国の工業生産は約50%減退し、失業率は3000万人に達したといわれる。これは資本主義的生産の基本矛盾から必然的に生じた現象で、生産と消費の不均衡が極点に達したために起こったもの。各国は恐慌対策に奔走し、アメリカはニューディール政策、イギリスはブロック経済体制、ドイツは準戦時体制をしいたが、慢性的な不況状態のもとで国際的なファシズム勢力の台頭となった。

     

    カサブランカ会談(1943.1)

    1943年1月にモロッコのカサブランカで行われたアメリカ大統領ルーズベルト(フランクリン)と、イギリス首相チャーチルの会談。枢軸国を無条件降伏させる計画や、北アフリカ戦線の共同作戦を討議。フランスの対ドイツ抗争の指導者であるド=ゴールとジローも出席し会談したが、両者の対立関係が表面化し、解決しなかった。

     

    カイロ会談(1943.11)

    第2次世界大戦中の1943年11月、アメリカ大統領ルーズベルト(フランクリン)、イギリス首相チャーチル、中国主席蒋介石がカイロで行った会談。日本の無条件降伏を要求するカイロ宣言を発表。おもな内容は、3国は日本の侵略を制止し罰するが、領土拡張の意図はない。日本は第1次世界大戦の開始以来奪ったり、占領した地域や満州、台湾など清国から奪った地域から駆逐される。朝鮮を独立させるなど。この領土条項はポツダム宣言に取り入れられた。

     

     

     

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